その世界では、たとえ10,000人の村だったとしても、人の個性は区別できず、20位のカテゴリーで人々の性質が分けられるだけかもしれません。
敵か、味方か、良い人、普通の人、悪い人とか、力の強い人、頭のいい人、優しい人、怒りっぽい人、とか。
ものを考えるにしても、悩むにしても、物事の把握が大雑把なので、「運命なので仕方がない」とか、「あいつが悪い」とか。
また、自分自身を把握するにも、「なぜ自分は怒っているのか」「悩んでいるのか」の答えも大雑把にしかできないでしょう。
私がここで言いたいのは、人々が言葉を鍛えることがなくなると、自分自身の理解が単純になり、他者や世界の捉え方が単純になり、
すぐに「敵」と「味方」に分ける安易な判断になり易くなるのではないか、ということです。
私の子供の頃はまだ、頻繁に「本を読め」といわれました。ただ当時、なぜ「本を読む」ことが大切なのか、具体的に説明してもらえませんでした。
今の私なら、こう答えます。
「言葉に親しみ、言葉を豊かに使えるようになることが、自分と世界を豊かに広がりをもって把握したり、他者や世界から刺激を受けることを可能にし、
そのことが、君が危機に陥った時、君自身が君を救うときの力になるからだ。(もしかしたらその力で他人も助けられるかもしれない)」と。
本という他者から言葉を通して世界が広がっていったり、知識が増えることも大切だけれども、なにより言葉を豊かに使える人になってほしい。
* * *
話が長くなると思ったので、結論から先に書きました。
話の発端は、いわゆる「コピー&ペースト」問題です。いまや小学生までもが学校の読書感想文の宿題を、ネットからのコピー&ペーストで
済ませる実態をNHKの番組で特集していました。恩田ひさとしという人などは、小学生用の各種感想文のネタをネット上で配布し、
「こどもに遊び時間をつくってあげたかった」とか堂々とテレビで述べていたので、私はたいそう憤慨したのです。
私は数年前、某私立大学の建築学科で臨時非常勤講師として大学一年生を相手に2年間「造形実習」という実技中心の授業を担当しました。
その中で、「自分の好きなアーティストについて述べよ」というレポートを提出させていたのですが、やはりコピペの文章が全体の2割はありました。
「自分の好きなものについて」という一番書きやすいテーマすらコピペするその姿勢に、私は失望と憤りを隠せなかったのですが、
逆に、自分の言葉で書いても、まるで小学生みたいな作文も数点あり、問題の根の深さに愕然としました。
おそらく、小学生レベルの言葉しか使えない大人が、相当な数世の中にでていると思います。言葉が拙く
自分の感情を自分で分析できず、他者の人格を認めることのできないがために、無差別犯罪を起こしてしまうかもしれません。
権力者のうわべの耳触りのいい言葉に酔い、人を「敵か味方か」でしか判断できない視野の狭さによって、ヒトラーのような
偏った人物を最高権力者にえらんでしまうかもしれません。
もしかしたら、不毛な戦争がおきてしまう土壌は、このようなところから育っていくのではないでしょうか。
絶景地で富士山をスケッチしながら、後ろのほうで高校生と思しき少年たちが、雄大な風景を前に「ヤベエ、ヤベエよ」と
同じ言葉を延々と繰り返すのを聞きながら、そんな思いに駆られてしまう私です。
(※某私立大学の学生たちの名誉のために追記。レポートのうち1割は逆に素晴らしいレポートでした。
私の知らないアーティストについても、レポートと読むことで興味を抱きましたし、私があまり好きじゃなかったアーティストについても
独特の観点からその魅力を語ってくれ、興味を持ち直したり、こちらが学ばせてもらったものです。)